
私は気になるテレビ番組を適当に録画して、暇なときに倍速で見るという習慣があります。
目的は情報収集です。慣れてくると、だんだんと倍速でも内容が分かるようになりますので、忙しい皆様も一度試してみてはいかがでしょうか?
さて、最近NHKのドラマで聖女という広末涼子主演のドラマがありました。
彼女は貧しい生い立ちゆえ、男性の経済力を目当てに付き合います。しかしどの男性もいつまでもいいことが続くわけはありません。男性の経済力が怪しくなり、彼女は去っていきたいのですが、男性が別れてくれません。そして最後は拘束する男性が邪魔になり殺人未遂をしてしまいます(この辺は殺意があったかどうかは、明確にしていません)。彼女は被疑者になり、裁判が始まります。結局彼女に殺意はなく、事故ということで無罪へ。
ここから、彼女に殺意があったかどうか?のドラマの佳境へ入っていきます。
その中で、印象に残ったシーンとセリフがありました。
悪女として有名になってしまった彼女が、無罪へ。一躍時の人となり、記者会見が開かれます。その会見時に記者が
「あなたは、○○さんに対して本当に愛情があったんですか?」
「愛していたのに、なぜお金を貢いでもらっていたんですか?」
「愛を・・・愛を・・・愛を・・・」
その時、彼女の弁護士が
「皆さん、愛という言葉を美化するのはもうやめにしませんか?」
「愛とは欲望です。執着の始まりです。安いタオルより、ホテル使用のタオルを選びませんか?パンの耳よりバターたっぷりのクロワッサンを選ぶでしょ? 人間は自分を幸せにしてくれる人を選ぶんです。 家事ができない人より、できる人を嫁にしませんか?それをある人は愛と呼び、ある人は打算と呼ぶんです。愛は地球を救うとか、愛があれば○○とか・・・
もうそんなに愛という言葉を美化するのはやめましょうよ。彼女は自分に正直に生きただけです。この裁判は、私たちに、愛というものを美化しすぎるのをやめましょうと教えてくれたはずです。」
同感です。
純粋な愛などというものが存在するのか?どこにも打算がないのか?妥協がないのか?
世界中の誰も定義づけられないものに対し、私がどうこう言うつもりはありません。
しかし極限的な状況に置かれていない限り、男と女の間には、不純物があるのは間違いない事実だと思います。
医者、弁護士、一流企業の会社員、資産家、IT長者 etc・・・
こういった男性と結婚したがる女性達を全員否定しますか?
自分がそういったものを持っているから、今の奥さんが来てくれたのかもしれないじゃないですか?
男性だってそうです。どうせなら、いい家の、育ちのいいお嬢様の方がいいですよね?
私は今の自分の魅力の中の一つに、間違いなく経済力も入っていると思います。それもこれも全部ひっくるめて今の自分なはずです。
もし、私にお金が無くなったら?
今の奥さんに離婚されちゃうのか?彼女はどこかへ行ってしまうのか?
そんな、仮定の話を考える必要などありますか?そうならないように努力すればいいだけですし、彼女たちがいなくなったところで、恨んだり、引き止めたりしない自分でいたいと思うだけです。それが大人の男であると私は思います。
奥さんも、彼女も男性の経済力をあてにして当たり前なのです。
甲斐性があるから女性が寄ってくる。甲斐性がなければ女性は寄ってこない。そして、甲斐性がある限りは、彼女たちにいい思いをさせてあげればいいじゃないですか。
この世にあるかないかわからないものを、誰も定義づけられないものを、考える時間なんて、無駄なことです。
私たちのような50歳を超えたおじさんが、若くてきれいな女性と歩いていたりすると、ガキどもは羨ましそうに「どうせ金だよ」なーんて言ってるでしょうね。
でもでもでも私は心でこう思っています。
「金もお前らよりはあるよ。でもお前ら俺に勝てるものが、金以外でなんかあるの?せいぜいお肌の張りだけでしょ?知性も、優しさも、ユーモアも、能力も、実力も俺の足元に少しでも及ぶなら、見せてほしいもんだね。俺たちは、そういったもの全部持ってるから、結果的に金もあるだけだよ。金だけでいい女捕まえられると思ってんならお金貸してあげよっか?お前らこそ、金だけとられて終わりだよ」
と。